経堂本町会とは

世田谷区経堂は江戸時代「経堂在家村」といわれる水田の村だった

経堂の正式なはじまりは定かではありませんが、1553年(天文22年)「大平家文書」の文献のなかに、「経堂在家村」として記されているのが、現在の経堂の最古の記録です。北西から烏山用水が村を二分するように流れ、流域に水田が広がるのどかな風景だったそうです。なぜ「経堂在家村」という名になったのか、由来は諸説ありますがその1つがこちら。当時、江戸幕府お抱えの医者(御殿医)だった松原土佐守弥右衛門は、当時としては珍しく、たくさんの専門書を持っていました。この頃、ほとんど読み書きができなかった村人たちは本といえばお経と思い込み、その松原氏が屋敷内にお堂を建てたことから、「経堂」と呼ばれるようになったというもの。のちに松原氏が常徳院から玄浦和尚を迎え、1626年(寛永3年)に寺を建立した際、経堂の名をとって「経堂山福昌寺」と名付けました。

小田急線の開通で、経堂は農村から商店の街へ

農村として栄えていた経堂が、急激に変わりはじめたのは昭和2年。小田急線の開通に伴うものでした。線路をひくための作業員が寝泊りする宿舎ができ、彼らが飲み食いする飲食店をはじめ、商売をする店がぽつぽつとできていったのが、本町通り商店街のはじまりといわれています。酒屋、靴屋、燃料屋、金物屋、八百屋に自転車や、呉服屋、歯科医院もできました。その後、農大通りやすずらん通りなど、経堂駅を中心に6つの商店街が誕生し、経堂駅を中心に、街はにぎやかに。
しかし、時代は戦争へ。経堂の本格的な発展は、昭和15年以降に続きます。

戦後、活気あふれる商店街が誕生

戦火を逃れた経堂は、戦後になると住宅開発が盛んになります。また昭和30〜40年ごろ、区画整理のために地主たちが土地を売りに出したことを機に、本町通り商店街の界隈は飲食店やテーラーなど、数多くの商店が立ち並ぶように。高度成長期には、67を超える店がひしめき、多くの人で賑わいをみせました。しかし平成へとの時代は移り変わり、周囲には大型スーパーが乱立。一時期は閉店する店が増え、活気をなくしていったことも……。

そしてオリンピックイヤーの2020年、また新たな風が吹いているといいます。現在の本町通り商店街の会長を務める斎藤氏は、こう話します。「最近はまた、若いオーナーさんの飲食店が増えてきました。彼らの個性を活かした美味しい料理や質のいいものを求める人たちも集まり、再び活気づいてきたように感じます。 初めて訪れる人は、どうぞ“ランチでおいしいお店はある?”とか、“お酒の美味しい店は?”など、気軽に商店街の人に聞いてみてください。のどかな雰囲気で、人情味を大切にしている商店街だからこそ、いい情報をきっと教えてくれるはず。ぜひ本町通り商店街を、そして経堂の街を楽しんでいってください!